ベートーヴェンについて
■ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェンLudwig van Beethoven
その頃の北ドイツは、まだ「プロイセン」Königreich Preußenと呼ばれ、大小三百もの領邦国家だった。
神聖ローマ帝国ケルン大司教領のボンBonnは、ケルンKöln大司教であり選帝侯の資格を持つ高位の貴族が、中世以来領主として、代々その地に宮廷を構えていた。中世に起きた大司教と司教団との争いの結果、祭祀を行う間だけしか大聖堂のあるケルンに留まることを許されなかった。18世紀になってからの高い教養を身につけていた3代の選帝侯兼大司教は富国強兵策をとらずに文化、教育政策に力を入れ、周辺諸国の文化を導入し両国に敵意を抱かせないようにした。学芸の振興や街の整備にも力を注ぎ、その結果ボンは、人口一万人に満たない小さな都ながら音楽や演劇の盛んな、美しい街並みの都として知られるようになった。
1712年、同名の祖父ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンLudwig van Beethovenは、現在ベルギー領となっているフランドルVlaanderen地方(日本ではフランダース地方として有名)のメヘレンMechelenの出身であり、ベートーヴェン家で最後の純血フランドル人として姓に「van」と付いているのがその名残である。家はパン屋だったというが、少年時代から美声に恵まれ、5歳で地元教会の少年聖歌隊員となったのがキャリアの出発点となった。
教会付オルガン奏者や宮廷楽長カペルマイスターKapellmeisterの代役などを近隣の諸都市で務めた後、21歳になったばかりの1733年に、リエージュLiègeの教会でバス歌手として歌っているところを、ケルン選帝侯クレメンス・アウグストClemens August I. Ferdinand Maria Hyazinth von Bayernに見出されて、破格の高給をもってボンに迎えられている。同年ボンでドイツ人のマリア・ヨーゼファ・ポルMaria Josephaと結婚し、以後ボンがベートーヴェン一家の定住地となったのである。
1761年、選帝侯がマクシミリアン・フリートリヒMaximilian Friedrich von Königsegg-Rothenfelsに代わると、祖父ルートヴィヒは宮廷楽長カペルマイスターに抜擢され、当時の侯邸用年中行事表には「名誉ある廷臣」の第3位に記載されている。彼は、それに値する、音楽についての広い見識と人望を備えていたに違いない。選帝侯マクシミリアン・フリートリヒは、オーストリア女帝マリア・テレージアMaria Teresiaの末子で、時のオーストリア皇帝ヨーゼフ2世Joseph II/Joseph Benedikt August Johann Anton Michael Adam von Habsburg-Lothringenの弟であり、フランス国王妃マリー・アントワネットMarie-Antoinette-Josephe-Jeanne de Habsbourg-Lorraine d'Autricheの兄でもある。
祖父ルートヴィヒと祖母ポルとの間に生まれた子は次々に亡くなり、成人したのは1740年頃生まれの父ヨーハン・ヴァン・ベートーヴェンJohann van Beethoven一人だけだった。
祖母ポルはかなり早い時期からアルコール依存症となり、修道院の施設に収容され、そこで亡くなっている。祖父を尊敬し、後年肖像画をボンから取り寄せて終生身辺に飾っていたベートーヴェンも、祖母については何も語っていない。
祖父ルートヴィヒは、一人息子のヨーハンに早くから音楽教育を施して、12歳になると礼拝堂のボーイ・ソプラノとして出仕させている。ヨーハンは声楽の他にピアノやヴァイオリンも学び、1764年16歳で宮廷音楽家の資格を得た。テノール歌手として100ターラーの給与を受けて宮廷の務めを果たす傍ら、上流家庭の子弟に声楽や器楽の演奏を教えたり、宮廷に職を求める音楽家たちの個人指導を引き受けたりもした。ヨーハンは27歳になるまで、ルートヴィヒの下で暮らしていた。
ヨーハンが選んだ結婚相手は、ライン川を遡ったコブレンツKoblenzの対岸にあるエーレンブライトシュタインEhrenbreitsteinのケーヴェリヒ家の未亡人、数日後に21歳になるマリア・マグダレーナだった。彼女の父ハインリヒは、生前トリーア選帝侯Erzbischof von Trierの夏の宮殿の料理長を務めており、宮中の大膳職長官に相当する地位であり、親戚には企業家や参事会員や高位の聖職者もいた。
1767年11月12日、ボンの聖レミギウスRemigiusカトリック教会でヨーハンとマリアは結婚式を挙げた。ヨーハンたちはボンガッセbonngasseの小路に面した住宅の裏手にある質素な離れに、後のベートーヴェン生家となる新居を構えた。(現在は二つの建物が連結され、ベートーヴェン・ハウスとして博物館になっている。)質素な床板と低い天井、窓から差し込む光の中に等身大のベートーヴェンの胸像が置かれているだけの屋根裏部屋は、ベートーヴェンの誕生の部屋である。
1770年12月16日、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは産声を上げた。近くの聖レミギウス教会の洗礼名簿には、1770年12月17日付でヨーハンとマリアとの第二子として記載されている。二人の結婚に強く反対していたと言われる祖父ルートヴィヒは、この第二子の男児の洗礼に名付け親として立ち会っている。 右の写真はベートーヴェンの出生(洗礼)証明書。
ヨーハンとマリアの間には5人の男児と2人の女児が誕生したが、無事に成人したのはベートーヴェンとその弟2人の男児3人だけだった。母は前夫も前夫との息子も亡くしている。当時の乳児死亡率は50%以上、産婦の死亡率も高い時代だった。
1769年4月2日洗礼 長男ルートヴィヒ・マリア(6日後死去)
1770年12月17日洗礼 次男ルートヴィヒ
1774年4月8日洗礼 三男カスパル・アントン・カール
1776年10月2日洗礼 四男ニコラウス・ヨーハン
1779年2月23日洗礼 長女アンナ・マリア・フランツィスカ(数日後死去)
1781年1月17日洗礼 五男フランツ・ゲオルク(1783年死去)
1786年5月5日洗礼 次女マリア・マルガレータ・ヨゼファ(1787年死去)
父ヨーハンはとても几帳面な性格で責任感も強く、歌もピアノも正確な音楽家ではあったが、楽士長の祖父の七光りでやっと地位を得ているという負い目から、時折、酒に溺れる気弱な男だった。
父ヨーハンは息子ベートーヴェンの教育には異常に熱心で、まだ椅子に立ったままでしかピアノのキーに触れられない4歳のベートーヴェンに、まるで大人に教えるように厳しく指導したため、その度にベートーヴェンは泣きながらピアノを叩いては、恨めしげに父の顔を睨むのだった。
ベートーヴェンが7歳になると、両親は彼をノイガッセの街にある小学校に入れた。
当時は中流家庭でも小学校に行かせることはまれであったが、1774年頃、父と祖父がかつて住んだこともある邸宅であったラインガッセ24番に引っ越した。
ここは学校に近く、ベートーヴェンには学業に励んでほしいという両親の気持ちとは裏腹に、彼は授業をさぼっては、マルクトプラッツMarktPlatz(ボン市庁舎前の広場。)の噴水の前でぼんやりしていることが多かった。ベートーヴェンはちっともおもしろくなかった。音楽そのものがつまらないのではなく、父に押しつけられ、規律正しく型にはめられることが退屈で仕方がなかったのである。
父はそんな息子にテーブルを叩いては叱りつけ、楽譜どおり正確にピアノを弾くよう強く指導し、夕食抜きで一晩中弾き続けさせることもまれではなかった。
モーツァルトWolfgang Amadeus Mozartの父レオポルドJohann Georg Leopold Mozartほど教養も愛情もなかった父ヨハンが、どのように教え、何を教材に使ったかは不明であるが、祖父の存在なしでは音楽界にいられないのだから、息子にもう一人の自分を見出し、期待を寄せるのは当然なことであったろう。
しかし、勤勉実直で規律保守が人間の最低条件と考えていたヨハンもまた例外ではなく、中世の封建社会でしか生きられない、貴族のお抱(かか)え演奏家の一人に過ぎなかったのである。
その後ヨハンは神童モーツァルトのように息子を社交界へデビューさせようと、必死に宮廷中を駆け回った。
1778年3月26日、ケルン市のシュテルネンガッセSternengasse・コンサートホールでの演奏会にこぎつけ、ベートーヴェンは華やかなデビューを飾る。
人々は初めから終わりまで暗譜のまま、激しく正確にピアノを弾く小柄で色の浅黒い子供に、神童という褒め言葉を添えて拍手をした。
<つづく>